著作一覧 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 帰蝶と信長 一、蝶は旅立つ 帰蝶15歳、織田信長16歳……美濃国の才色比類なしと謳われた姫と尾張のうつけが和平の証として祝言をあげた。政略で知り合ったふたりがお互いを理解し、手をとりあって戦国の世を駆け抜ける。 本作では祝言から道三敗死までを描く。 AmazonKindleで好評発売中 税込み660円 Unlimitedでもお読みいただけます。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ コメント
渓斎英泉のお墓へ うすぼんやりと過ごしている間に季節は移ろい、花の色は褪せてしまった……なんてね。 仕事と公募原稿に追われて気づいたら2ヶ月も更新していませんでした(;´Д`) 今日は小雨が降って蒸し暑い中、高円寺へ。 目的地は祥雲山福寿院(東京都杉並区高円寺南2-40-5)という曹洞宗のお寺。 『紙屑絵師』で描いた渓斎英泉のお墓があります。 色々なブログを見ていただくとわかりますが、異口同音に「わかりにくい」と(笑) 所謂寺町のような一画があって探しにくいのです。 「杉並区立杉並第八小学校」の隣にありますので、小学校を目指していくとよいと思われます。 本堂の裏手……トンネルみたいな通路を潜ると墓地になっていて、その左手に英泉のお墓がありました。 三基並んでおります。読んでみました。 わたしは墓石は全然詳しくないので、頓珍漢なことを述べていたら教えていただけるとうれしいです。 右 光圓繫珠信女 寛政八丙午年七月□五日 (□は十か?) 天坤院覺登玄道居士 文化七庚午年五月十日 池田政兵衛茂晴 裁繍妙錦大姉 文化七庚午年十月廿四日 中 天□(明?)三癸□(卯?)年九月二十日 貞香院□□了□居士 行年六十一 池田代□□(傷が走っていて読めない) 先祖代々之墓 寛政元己酉年□□月十六日 光雲院偏□明臺大姉 行年六十四(?) 左 嘉永元戊辰年七月廿二日 渓齋池田英泉之墓 渓淋妙聲大姉 文久三癸亥年四月十九日 全体的に江戸時代の墓石とすれば新しいように思いました。 右の石に刻まれている光圓繫珠の没年が寛政八年。英泉の生まれは寛政三年。彼の実母は英泉が六歳のときに亡くなっているというから、光圓繫珠信女という人が英泉の実母に比定できそうです(数え年です)。 真ん中の天坤院覺登玄道居士は英泉の父、池田政兵衛茂晴。 左の裁繍妙錦大姉が継母ということでよさそうです。父と継母が相次いで亡くなるという話どおりですね。 英泉が数え20歳のとき、1810年すなわち文化七年。齟齬はなさそうです。 真ん中の石。先祖代々といいながら、両脇に名前が彫り込まれています。摩耗していて肉眼では読めなかったのですが、三基のなかではもっとも石が古いように思いました。行年まで記しています。削って新しく彫るということを墓石ではするのでしょうか。 さて、天□三癸□をみたす、天がつく元号は江戸時代に天和(てんな... 続きを読む
その女・吉乃2 前回は生駒吉乃の墓所について考察した。未読の方は こちら をどうぞ 今回は子の出生について考えてみたいと思う。 まず、生駒「吉乃・吉野」という名前は前野文書から作られた『武功夜話』にしか出てこない。 信長と美濃の姫の祝言時期との矛盾 その『武功夜話』によれば、吉乃は土田弥平次もしくは土田弥兵衛という者の妻であるが、夫が戦死したため実家である郡(こほり=小折)の生駒氏の実家に身を寄せていた。 そこに信長がやってきて吉乃に手をつけた。そして吉乃は懐妊。 ところが同じ時期に美濃と尾張の停戦の証として信長と美濃・斎藤利政の娘の縁談が整う。 これは困ったこととして、吉乃を井上屋敷という屋敷へ隠す。 ところで、武功夜話によれば吉乃の第一子出産と美濃の姫の輿入れは同じ時期であるという。 では第一子とされる信忠の生まれた年だが、『 寛政重修諸家譜』によれば弘治三年(1557)とされる。 すると信長と濃姫(帰蝶)の婚姻は弘治三年になるが、この前年の弘治二年(1556)に道三は息子義龍と戦い敗死している。『信長公記』に記載されている道三と信長の会見もないことになる。道三が信長の村木攻めに美濃の軍一千を送ったこともなくなる。信長は道三と義龍の決戦のとき、多良まで軍を出すが何のためか説明がつかない。 妊娠時期の矛盾 土田弥平次が死んだのは前年弘治二年九月である。 十月に実家に戻ってきたとして、すぐに手がついて、そこから十ヶ月。奇妙丸は弘治三年八月以降の生まれになる(最短でも) ところが、次男の信雄は翌弘治四年(永禄元年)三月の生まれである。産後すぐに信長が通っても、妊娠七ヶ月か六ヶ月で第二子を出産することになって月数が合わない。 次に長女の徳姫は永禄二年(1559)十月生まれである。次男と長女の生まれは整合性がとれている。 つまり長男の信忠は別の側室所生であった可能性が高い。 ふたつの戒名 天正五年 美濃崇福寺宛織田信忠判物 『久庵慶珠』 の記載 武功夜話 『久菴桂昌大禅定尼』 ※コロナ禍のため、上記天正五年判物の原本確認ができません。国会図書館が2020年5月20日まで来館業務は休館となっております。コピーを受け取ろうにも、地方図書館も軒並み休館していて、史料を手にすることができません。どこかで見た(持っているw)と思う... 続きを読む
その女・吉乃1 2つの菩提寺 生駒吉乃(いこまきつの) という名前をご存知でしょうか? 数年前いや十年ほど前まで「信長最愛の女性」と喧伝されていた側室(もどき)です。 実際には吉乃という名前は創作でつけられた名前、ほかにるい(類)という呼び名が大河ドラマ『King of jipang 信長』では用いられました。拙作でもるい、にしております。 この吉乃の嘘(武功夜話の嘘)を暴いていくのが本稿の目的でございます。武功夜話全体がいかにデタラメな本か、というのは他の本で詳細に言い尽くされているので、しのきは「墓」と「寺領安堵」から斬っていきます。 続きを読む
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