その女・吉乃1

2つの菩提寺

生駒吉乃(いこまきつの)という名前をご存知でしょうか?
数年前いや十年ほど前まで「信長最愛の女性」と喧伝されていた側室(もどき)です。
実際には吉乃という名前は創作でつけられた名前、ほかにるい(類)という呼び名が大河ドラマ『King of jipang 信長』では用いられました。拙作でもるい、にしております。
この吉乃の嘘(武功夜話の嘘)を暴いていくのが本稿の目的でございます。武功夜話全体がいかにデタラメな本か、というのは他の本で詳細に言い尽くされているので、しのきは「墓」と「寺領安堵」から斬っていきます。


信長の側室生駒氏の菩提寺といえば小折にある久昌寺です。
ところがもう一つ、生駒氏の菩提寺(生駒家宗女の母の菩提寺ということらしいですが)がありました。
曹洞宗安斎院……なんでも信長が清洲支配を始めたときには既にあったそうで、後に生駒家宗女(いこまいえむねのむすめ=きつの)の母の菩提寺になったとか(縁起など未確認でネットから集めた情報です。安斎院自体のホームページはありません)。
ところで、奥野先生は信長室生駒氏の菩提所と書かれています。((『織田信長文書の研究 上』吉川弘文館・オンデマンド版39頁))
くどいですが、寺の縁起を未確認なのでどちらが正しいのかわかりません。 

尾張安斎院宛判物写 
其方居屋敷・寺領等、如先規申付上者、不可有相違者也、仍状如件 
                 上総介信長(花押)

天文廿三 十一月廿日 

安斎


其の方の居屋敷・寺領等、先規(せんき)の如く申し付くるの上は、相違あるべからざる者なり。仍って状件の如し

(其の方の居住用の家屋敷・寺領等は従前の通りにすると申し付けたうえは、相違あってはならない。よってこの書状のとおり(安堵する))

安斎院への寺領安堵です。天文23年(1554)、信長が天文3年の生まれですから、21歳(数え)のときに出した安堵状です。

一方 久昌寺は江南市にあるお寺。
生駒氏の家宗以降のお墓があるようです。もちろん家宗女(いえむねむすめ・いわゆる生駒吉乃)の墓もここにあります。
元は
久昌寺の前身は、至徳元年(1384)この地の土豪林朝忠により禅喜寺を早創、その後、嘉慶元年(1387)寺号を慈雲山龍徳寺に改めています。応仁のころ、大和から移住した生駒家初代家広が先祖の冥福を祈るため、寺を再営し菩提所としました。((江南市HP「ふるさと江南歴史散策道」信長・吉乃コースより))

 その後、家宗女(吉乃・仮)の死をきっかけにして寺名を久昌寺(きゅうしょうじ)と変え、現在に至っているようです。祀られているのは生駒氏のみ。ほかに檀家はいません。ある意味すごい。
 さて、生駒氏の母上(吉乃のお母様)の菩提所が上述のとおり安斎院にあるとすれば、これはどういうことでしょう。 ちなみに母上のお墓は久昌寺にも家宗と一緒の墓石があります(写真でみただけですけどね)。
 もちろん信長は菩提所をふたつも三つも持っていますが、ただの無名の女性がなんでふたつも?というのが素朴な疑問です。
  • 1 何かの理由(安斎院と実家の縁が深かったなど)で家宗妻(もしくは家宗女)だけは菩提所を安斎院にも残した。普通に考えて生駒氏の母もしくは娘(吉乃)は清洲に住んでいたと考えられるのではないか。
  • 2 元来は安斎院が生駒氏の菩提所であったが、生駒家宗女の顕彰のために久昌寺を新しく菩提所とした。安斎院には生駒氏(妻か娘かの)菩提所であったという謂れが残った。
  • 3 その他・・・生駒家宗には先妻と後妻がいた、とか。
判物のとおり安斎院には寺領を安堵しています(生駒家宗女が側室にあがる前ですが)。「先規の如く」とあるので、残ってはいないが判物が以前にも出されていたと考えられます。信長と関係のあった女性が埋葬されていてもよさそうです。清洲だし。
 しかし久昌寺には愛妾が眠っているのに一切の安堵をしていません。
生駒氏(吉乃)が亡くなったときに久昌寺に葬られたことになっていますから、信長死後に久昌寺が建立された、あるいは生駒氏の菩提所になった、という仮説は成り立たちません。武功夜話的には信長最愛の女で子どもを3人も産んでいるのに、不思議です。
 久昌寺がもともと生駒氏の菩提所で吉乃(仮)も埋葬されたのであれば、当然信長は寺領を安堵するはずです。で、この武功夜話を持っていたおうちの方が宣伝に使わないはずがない。しかし宣伝などはされておらず、常にどこからともなく出てくる文書(もんじょ)もない。すなわち寺領を安堵されたことは一度もなかった。
ここから導き出されるのは、
 信長の時代にこの寺はなく、吉乃(仮)もここに眠っていはいなかった。
もしくは
 信長はとっくに生駒吉乃(仮)とは切れていて、死に対してなんの感傷もなかったし、生駒家についても無関心だった。
 ちなみに、生駒氏のことが出てくる前田文書では、一切安斎院にも清洲に墓があったことにも触れていません。(武功夜話制作の都合上、事実が捻じ曲げられたのかも)
 安斎院に実際に行って確かめてみたいです。縁起なのか過去帳にちゃんと名前があるのか、はたまた墓所まであるのか、あった証拠があるのか。
小折と名古屋市東区は離れているのかな。行ってみたいなぁ。やはり百聞は一見に如かず、といいますからね。

次の「その女・吉乃2」では生駒氏の出産について扱います。
信長が香華料660石(石?)を信雄を通じて送ったという史料が見つかりません。ご存じの方教えてくだされ。
2020/04/18追記
信長は存命中香華料六六〇石を贈っていません。だいたい信長の時代、石高表記はされません。織田信雄分限帳でも貫高表記です。
信雄が信長に頼んだというのも前野家文書からのようです。またわかったら書きます。
今現在の推理ですが、やはり清洲にある生駒氏の墓が側室の墓ではないかと思っています。

その女・吉乃2こちら

コメント

  1. 私の記憶が正しければ久昌寺関連のものに書いてあると思います。子孫の方が生駒文庫と言う怪しげなサイトを開いているのですがそこに書いてあると思います。

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    1. ご教示ありがとうございます。みんな信長が660石香華料を与えたと書いてあるのですが、出典がわからず困っていました。あのサイトですか……。ちょっとみてきますね。

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  2. 読んできました。妄想入ってたわ。尾張名所図会ができたのは江戸時代終わりから明治にかけて。
    660石を与えたのは秀吉、って書いてある。ノッブは一文も出してないし寺領安堵もしてない。で、どうして信長が吉乃のために作った寺というのだかわたしにはさっぱりわかりませんでした(笑)
    >久昌寺は、その近くにあった臨済宗の『龍徳寺』を万松寺と同じく曹洞宗に改宗し、亡くなった妻の戒名「久菴桂昌大禅定尼」から名を取り、久昌寺として建てられたものである。
    生駒氏の寺は江南市の他の場所にあって、信長が命じて龍徳寺を改宗した、というのだが、眉唾ものですね。新しく寺を建ててそこに曹洞宗からお坊さんを呼んでくればいいだけの話。
    4年ぶりにみたら一層妄想がひどくなってました。

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