その女・吉乃2


前回は生駒吉乃の墓所について考察した。未読の方はこちらをどうぞ
今回は子の出生について考えてみたいと思う。
まず、生駒「吉乃・吉野」という名前は前野文書から作られた『武功夜話』にしか出てこない。

信長と美濃の姫の祝言時期との矛盾

その『武功夜話』によれば、吉乃は土田弥平次もしくは土田弥兵衛という者の妻であるが、夫が戦死したため実家である郡(こほり=小折)の生駒氏の実家に身を寄せていた。
そこに信長がやってきて吉乃に手をつけた。そして吉乃は懐妊。
ところが同じ時期に美濃と尾張の停戦の証として信長と美濃・斎藤利政の娘の縁談が整う。
これは困ったこととして、吉乃を井上屋敷という屋敷へ隠す。
ところで、武功夜話によれば吉乃の第一子出産と美濃の姫の輿入れは同じ時期であるという。
では第一子とされる信忠の生まれた年だが、『寛政重修諸家譜』によれば弘治三年(1557)とされる。
すると信長と濃姫(帰蝶)の婚姻は弘治三年になるが、この前年の弘治二年(1556)に道三は息子義龍と戦い敗死している。『信長公記』に記載されている道三と信長の会見もないことになる。道三が信長の村木攻めに美濃の軍一千を送ったこともなくなる。信長は道三と義龍の決戦のとき、多良まで軍を出すが何のためか説明がつかない。

妊娠時期の矛盾

土田弥平次が死んだのは前年弘治二年九月である。
十月に実家に戻ってきたとして、すぐに手がついて、そこから十ヶ月。奇妙丸は弘治三年八月以降の生まれになる(最短でも)
ところが、次男の信雄は翌弘治四年(永禄元年)三月の生まれである。産後すぐに信長が通っても、妊娠七ヶ月か六ヶ月で第二子を出産することになって月数が合わない。
次に長女の徳姫は永禄二年(1559)十月生まれである。次男と長女の生まれは整合性がとれている。
つまり長男の信忠は別の側室所生であった可能性が高い。


ふたつの戒名

天正五年 美濃崇福寺宛織田信忠判物 『久庵慶珠』 の記載
武功夜話 『久菴桂昌大禅定尼』
※コロナ禍のため、上記天正五年判物の原本確認ができません。国会図書館が2020年5月20日まで来館業務は休館となっております。コピーを受け取ろうにも、地方図書館も軒並み休館していて、史料を手にすることができません。どこかで見た(持っているw)と思うのですが、見つけられません。入手次第、文章を掲載します。
というわけで、いま原本にあたることができないのですが、各書物・ブログ等にも頻繁に出ている久庵慶珠、方や久菴桂昌大禅定尼。
同一人物だという説もあり、別人だという説もある。
しのきは別人説を採用します。なぜならば、信忠の実母の名前を、自分(信忠)の名において判物に書くときに、漢字を間違うだろうか、ということです。このとき信忠は生きていますからね。くどいですが、右筆に書かせたとしても、必ず自分で見るはずです。美濃崇福寺は岐阜城の近くなので他人に任せるとは思えない。

さて、では武功夜話の桂昌だが、長男(嫡子)も生駒氏の信長夫人が産んだことにしたいために、よく似た字面を使って捏造したのだと考える。
生駒氏は徳姫が徳川に嫁入ったことで、徳川家とのつながりができ、江戸時代には徳川家により近しい存在になっていた。家自体も徳川家へすり寄っていく方向性を決めたのではないか。記憶が薄れていくのを奇貨として信長の時代になかった縁戚関係を巧妙につくりあげていったものと考える。
そして、文書としても顕したくなって昭和になってから作られたのが「前野家文書」「武功夜話」「千代女留書」など一連の偽書ではないか、と考えている。
だからそこここで破綻するんですよ。

参考文献。画像をclickするとAmazonの商品に飛びます。

わかりやすいです。2016年にプロパーで購入しております。
現在は中古品のみの取り扱いです。
その女・吉乃1,2は概ねこの本をガイドにして書きました。


未読です。すみません。
こちらは地名などからのアプローチをしているようです。

コメント

このブログの人気の投稿

渓斎英泉のお墓へ

麒麟がくる 第13回 「帰蝶のはかりごと」感想

2020年はセルパブ元年